廃墟マニアが廃墟を保存しようとする動きに不快感を示す理由

一年ほど前、私にTwitterのメッセージにとある大学生から、廃墟の活用について論文を書きたいので取材させてほしいという連絡がありました。

特に断る理由がなかったため、電話でならという条件で小一時間ほどの取材に応じる事にしました。

その時、ちょうど摩耶観光ホテルを文化財にしようとする動きが活発化しており、私に対する取材の内容は「文化財にしようとする動きに対して廃墟マニアとしてどう思うか」という所に焦点を置き、”廃墟マニア”としての答えを求められました。

なぜ、その大学生がそのような質問を私にするのか、それは当時インターネット上で摩耶観光ホテルが保存される動きに対して、否定的な意見が多数見られたからです。

廃墟マニアの中には「誰かの管理が入れば廃墟としての価値がなくなる」、さらには「摩耶観光ホテルの価値は無くなった」という人までいたほどで、観光に活用するにはどうしたら良いのかまとめる上で、無視できない非常に重要な意見であると考えたからでしょう。

では、なぜ廃墟マニアは廃墟を保存する動きに対して不快感を示すのでしょうか。

当時、大学生の取材に廃墟マニアとして答えた私が、廃墟に対してどう思うのか、廃墟が管理される事に対してどう接するべきか書いていこうと思います。

 

記念物としての廃墟、芸術としての廃墟

廃墟を語る上で、ローマについてまず触れておかなければなりません。

古代から今日に至るまで、歴史が幾層にも集積しているローマの市街地に、人々は憧憬を抱いてきました。

18世紀、建築家であったジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージはローマ教皇の支援を受け、ローマの古代遺跡の研究を行ったが、その後、見た風景や知識から古代ローマの都市景観の絵を描くようになりました。

彼の刊行した「ローマの景観」は、当時のローマの建築物を緻密に描かれていますが、そのままの世界を描いた訳ではなく、古代ローマと18世紀のローマの風景を融合させたり、ドラマチックな構図で描いたり、グロテスクな光景をまるで幻想的な都市であるかのように描かれており、後の芸術や建築文化に大きな影響をもたらしたといっても過言ではありません。

1937年、ドイツのヒトラーは、イタリアローマのコロッセオを訪れたといいます。

ローマ帝国時代に築かれたコロッセオは、周囲527m、高さ48m、観覧席に5万人を収容した巨大な闘技場建築物で、西暦80年に建設され、語源はラテン語のColosseumから来ています。

約2000年の年月、崩壊してもなお佇むその姿に深く感動したヒトラーは、アルベルト・シュペーアが創案した「廃墟価値の理論(Ruinenwerttheorie)」を熱烈に支持し、今後建設される建物は、数千年後の未来において美学的に優れた廃墟となるように設計されるべきであると唱えました。

ナチスの公的な建物においては鉄筋やコンクリートを使わず、大理石などの石やレンガを使って建造し、たとえ国が崩壊しても、その姿を保持できるようにするというものでした。

結局の所、かつて偉大な文明が栄えた所で、姿形が残っていなければ、誰がその歴史を思い起こさせるのだろうか、残された建物が無ければ、かつての繁栄も忘れ去られてしまうのではないかと考えたのです。

即ち、ヒトラーにとって廃墟とは芸術としてではなく、後世に時の権力を語り継がせる為の記念建造物としてのものでした。

さて、ここまでは廃墟というものに魅了された西洋のお話。

廃墟に何を求めるか、それは人それぞれであり、考え方の違いが廃墟の魅力の一つでもあると考えます。

西洋と日本では廃墟の価値観が違いますし、中世と現代にいたっても大きく価値観は変わっているでしょう。

人類労力が作り上げた建築物が、役目を終えて人の手から離れ、自然と拮抗せず、時間と共に朽ちてゆく儚い姿が人間の在り方を鏡面のように映しているようで、美しく感じるのと、それを保存したいという気持ちは重なりあってはいけないという理由はありません。

しかし、保存し再び人間の管理下に置かれるという事は、ある程度自然と拮抗するという側面も持ち合わせています。

 

廃墟はジグソーパズル

以前、私はメインのサイトである古都コトきょーとの「旧摺子発電所」の記事でも書いたのですが、ここは僕が最も好きと言える廃墟です。

うっすら水に沈んだ部分が、透けて見えていて幻想的な光景がなんとも言えない感動を与えてくれます。

私たち廃墟マニアはこの薄っすら透けてそうで見えない下層部に何を思うのでしょう。

この建物は歴史的建造物でもなければ、記念物でもないただのコンクリートの発電所跡になぜこんなにも心惹かれるのでしょうか。

それは見えないからこそ広がるイマジネーションがそこにあるからだと思います。

僕にとって廃墟とはジグソーパズルの断片です。

その断片から想像できるもの、それはその建物の起源や、用途、終焉などの真実の一部であり、それらはすべて正解の答えでなくてもいいのです。

この廃墟というものがもつ多様な特徴から想像できる答えは無数にあり、そのすべてが僕にとっては正解でありロマンです。

この水没した発電所の残されたパズルのピースは、一部はインターネットを探せば情報として浮かび上がってくるでしょう、しかし大部分は水位調整池という決して干上がる事のないこの七色ダムの奥底に沈み、僕の手の届かない所にあります。

私がこのサイトで紹介している廃墟とは、廃墟としてそこに存在するピース、情報として浮かび上がってくるピースで出来上がった不完全なジグソーパズルであり、空白を埋めるのは私であり皆さんの創造性の中にあるのです。

 

イマジネーションを他人が作る事への不快感

廃墟マニアでも写真撮影を楽しむ人や、美しさは二の次三の次で探索がメインの人が居ますが、これらは想像でピースを埋めるタイプか、より現実的なピースを探すかによって趣向が違い、私のように両方を求めるタイプが最も多いかと思います。

廃墟の中に散らばるピースを見つける能力は、人それぞれ、廃墟に対して調べる能力も人それぞれですが、少なからず残されたピースがあり、廃墟マニアの多くは、見てきた廃墟に対して自分なりのイメージ像、ストーリーをそこにあてはめ、美化したり、心の拠り所としたり、自分の居場所を見出しています。

一度は(所有者の有無を度外視し)捨てられた建物に、廃墟という価値が生まれた以上、他人の価値観を押し付けられたり、自分と違う演出をされる事に違和感を感じているのです。

廃墟マニアとしては廃墟はまるで九相図のように、誰の手にもさらされず徐々に朽ちゆくべきで、最後に建物が自然崩壊した際には別れを惜しむというのが理想形で、言ってみれば建物の殯(もがり)のようなものでしょう。

 

ところで、軍艦島やマヤカンなど廃墟を保存しようとする動きに賛成か反対か、問われた時、取材で私は「賛成」と答えました。

しかし、廃墟マニアとして答えた時は、それは「寂しい」とも答えました。

例えば摩耶観光ホテルとその事業といえば、六甲の観光、また山岳観光において大きな一歩を歩み始め、建築的にも価値のある廃墟の一つです。

廃墟マニアの中では「旬」という言葉を使う方が多くみられますが、西洋の石やレンガで作られた半永久的な廃墟(Ruin)に比べて、日本に多い現代的な建築の廃墟というのは足が速く傷みやすい特徴があります。

摩耶観光ホテルは木製で作られた所も多く、レンガや石で作られた建物より一生が短く、そういった廃墟は、このまま放置されていて崩壊していっても良いのかという事が脳裏によぎりました。

運命を自然に委ね、共存して朽ちてゆくはずのAbandonedとしての廃墟、後世に残し、半永久的にその存在価値を認めさせるRuinとしての廃墟とは、現代の廃墟趣味において趣向が違いすぎて、一瞬言葉につまりましたが、建物とは時間の中にあるものでもあり、人間を中心に存在するものでもあるという事を考えました。

建物がどういう経歴を辿ったとしても、それも建物の運命であり、建てられたのも運命、廃墟になったのも運命、保存しようが解体されようがそれも運命。そこに所有者でもない廃墟マニアが口を出していい事なのかと理性的に考えると「賛成」という言葉しか出てこなかったというのが正直な所でもあります。

廃墟を観光地化する動きにおいて、これら廃墟マニアの意見というものは重要なのかを考えた時、全国に廃墟マニアというものはどれほど存在しているかという事から考えるべきです。

いわゆる我々が廻っているような「廃墟」に興味がある人というのは社会全体から見ればほんの一握りであり、その中でも実際に訪れるような人というのはさらに少数派になります。

自分でいうのもなんですが、さらに廃墟マニアとはとても身勝手な存在です。

建築学的に建物とは時間の中に存在するものという考え方もありますが、建物とは設計から崩れ行くその瞬間まで「いつまでも完成しないし、いつまでも壊れ行くもの」であるという事です。

建物が使われなくなってから、その後崩壊するまでの期間のごく一部に廃墟という価値観を見出し、バラバラに崩壊後はその興味を放棄してしまうのです。

保存しようとしている建物が記念物、遺跡となりえたとしてもそのまま放置すればそのうち跡形もなくバラバラに崩れ去ってゆくでしょう。

では、いざ崩れ去った時、そこで誰がその残骸に手を差し伸べるのでしょうか。

結局の所石やレンガで作られていなくても保存が可能になった現代の建築技術があるなら、廃墟でもちゃんと価値のある所は保存し、廃墟としてではなく価値のある記念物として多くの人に見てもらうべきだというのが在り方の一つとも考えています。

最後に。

廃墟が解体されようが自然に崩壊しようが再利用されようが保存されようが見たかったものが盗まれていようが、どのような運命を辿ろうとも、廃墟マニアはそれを受け入れざるをえない立場にあり、我々は常に廃墟というものに裏切られてきました。どんな形であれ自分の思うがままにいかない所も廃墟の良い所かもしれません。

取材の中で廃墟の保存について問われた時、自分の想像の中にある廃墟が、現実に消えていくようで寂しいと答えました。これが廃墟マニアとしての私一個人の本心です。

 

Suriko

旅や面白い所、不思議な所、絶景な所、ラーメンが好き。


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